2011/02/21

ラピッドリーダー2011

仕事がヒマになって、
とかく本を読むようになった。

晴耕雨読という言葉があるが、あれはなにも
そのまま天気のことを謂うのではなくて、
つまり本業がヒマなときは勉強しんさいよ、
ということなのである。
したがって本を読むわけである。

そもそもツイッターなどを
日に何度も閲覧しているのも
手持無沙汰になると字を読んでいたい、
という脳の欲求に従っているからである。
活字中毒と云えばカッコイイが、
それはとくに新しい文章でなくともよくて、
バイク雑誌のカスタム記事や
新車インプレッションだったりもする。

しかしそれだけではさすがに飽き足らず、
もうちょっと違う文章を読みたい、
ということになってくる。

そこで最近図書館通いを始めた。
貧乏なので古本でも買うのをためらう。
もともと妻がマメに区立図書館を
利用していたこともあって、
ワタクシにも勧めてくれた。

図書館と云えば小学校の頃、
週末ともなれば
母のクルマで小一時間もかけて
郷里の県立図書館に通っていた時期があった。
主に読むのはジュブナイルSF
(レンズマンとか)であったが、
かなりの量を読んでいた気がする

余談だが「レンズマン」に登場する
トレゴンシーの容姿は
文章では想像つかないよね。

まあそれはいい。


続きを読む "ラピッドリーダー2011"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/03/04

夏への自動改札口

基本的に一度読んだ本を
ふたたび読み返すということをしない。

資料的な用途があるなど、
何か有用な情報が
載っているならまだしも、
文学作品などは、まあ多くが文庫だが、
読み終わったら部屋の片隅に
積み上げておいて終いである。

エコの観点だけで云うと
非常にもったいない話だ。
紙メディアの持つ限界がそこにある。
資源を情報と切り離して
循環させらんないんだもんな。

ブックファーストに売りに行ったら
いくばくになるけど、
そしたら手元に残んないもんで、
次に読む予定などないくせに
惜しい気がして売れない。
字だけ残しとけないだろうか、
などと頓知のようなことを
考えてみたりする。

しかし物心ついたときから
媒体っちゃすなわち紙だったのだ。
紙を使わない本ないですかね、
なんて聞いたら
何云っとるんだお前で
片づけられちゃった時代を、
実際ついこないだまで
過ごしてきたのである。

ま、いまだに世の趨勢は
本=紙だとは思うし、
ワタクシ個人としても
本というもの自体に
愛情を感じるところがあり、
読書好きを演出する自分好き、
という側面もある。
だがこうして紙に書かれないでも
読まれる文章を
日々我々はもんすっごい量で
消費していて、
いつのまにこうなっちゃったかと
技術革新の早さに
改めてビックリするばかりである。

日進月歩っぽである。


技術革新といえば、というところで
きょうの話題である。

かく申し述べたように
再読ということを
ほとんどしないワタクシではあるが、
移動中などの手持無沙汰に
何をしたいかと云えば読書であり、
ipodで流行りの歌なんぞを
聞いたりはしない。

で、折りあってこないだカノジョと
本の話になり、ワタクシが
あれはいいぞと勧めたところ、
図書館から一冊のハヤカワSFを
借りてきてくれた。
当然カノジョもけっこう
面白がって読んだわけであるが、
そのあと、どうせだからと
ワタクシも再読してみることにした。

それが、SF界の金字塔、
オール・タイム・ベスト、
「夏への扉」
ロバート・A・ハインライン著、
だったのである。

内容については検索すると
それこそ幾つもの扉ならぬ「窓」が
パカパカ開くだろうので
ここであえてくどく説明することは
避けるが、これがあーた。

とてもとても
ビックリする内容だったのだ。

ありていに云えば、
「来なかった未来」の話だったのだ。

続きを読む "夏への自動改札口"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/25

動物デビュー

知っている、ということと
わかっている、ということはまったく違う。

これが本日の日記のテーマである。
あまりに漠然とかまえすぎていて
うまく書き表せるかどうか
自分でも不安を感じるけれど、
とにかくそうゆう話である。

わかっている、という言葉を
もっと的確に云い換えるべきなのだ。

たとえば石について。
どこにでもあるような
河原に無数に転がっている石について
ワタクシが何か想像するとき、
たぶんそれは、情報のツールとしては
まちがいなく
「石」とゆう名札のついた箱である。

しかし想像の中には
掌に置かれた
石ころの重みも表面のざらつきも
陽射しを受けた温もりも存在せず、
つまりそこには石はないのだ。

だから「石」と書かれた箱は
じつは空っぽである。

だがワタクシはそれを
電子マネーと同じようにトレードし、
そして実在の石には
目もくれることもないまま
日々を過ごし、
チャルメラをふやふやに煮て
ずるずるすすったりしているんである。


きょうは雲の多い平日の午後が
ぽかんと手に入って、
正午頃ワタクシは
アクザワさんの運転席で
FM802を流しっぱなしにしながら
これからの数時間を
もてあまし気味にしていた。

陽射しは鈍くかげったり晴れたりを
繰り返しながら、どこか色が薄い。
カーラジオもぽやぽやとして
へんに薄っぺらい。

ま、そんなハイファイな音響では
もともとないけれど。

朝のおしごとが終わった日は
その後何も予定がないと、
無為に一日は長い。
ましてや前日の晩まで
右往左往しつつ、突貫作業で
VTRを仕上げていたりすると
その間延びへのギャップはすごくて
ワタクシはたとえるなら
浮き袋の膨張した深海魚みたいに
むやみに息苦しく
そしてなす術がない。

なので
世間がお昼休みの時間帯に
食後の一休みをめいっぱい楽しむ
おっちゃんらと並び、
書店の駐車場で
ささやかに途方に暮れるのであった。

ぽえー。ぽええー。

続きを読む "動物デビュー"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/12/07

東京タワーと聖護院大根

チーズビットって、
子どもの頃けっこう好きだった。

現代に復活してからは
やっぱり好きで、
あまりお菓子を進んで買わない
31歳独身男性が、
月に何回かという頻度で
買っていることが判明している。

ってワタクシのことであるが。

いま思うのは昨今のチーズブーム、
(チーズは流行っているのですよ)
およびIT化社会において、
そのネーミングって
当時としては斬新というか
もんのすご先を行っていたのかなって
無理に勘違いしてみる。

チーズビットのビット(かけら)って
言葉の使い方が
現代でも通用すると思うし。

チーズうまい。理由は、まろやかだから。


さて、話はどかんと変わるが、
いま、晩酌のアテに
大根を鶏のつくねとともに煮ています。


我々にとってややもすると、
大根のイデアとは
すなわち青首大根ですね。

きょうのはちゃう!
聖護院大根(淀大根)です。

続きを読む "東京タワーと聖護院大根"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/09/28

メメント・もりもり

きょうはおしごとがお休みでした。
そしたらきっちり3食たいらげてしまった。
依然として食欲旺盛である。
育ち盛りか。


AM09:30くらい。朝ごはんとしてカレー。

納豆ごはんとカレーライスと
どっちにしようか迷いながら
レトルトカレーを温めつつ、納豆を混ぜる。

場当たり的にカレーをごはんにかけ、
あわよくば納豆カレーとして後半から
納豆の合流を考えていたのだが、
結果、カレーが
ことのほかよくできていたので
ごはんをぜんぶ食べちゃって、
納豆with玉子は
そのままずばずばと食べる。

この逆はたぶんつらかったはずなので、
自らの戦略が正しかったのだ。
でないとまた一膳多く
ごはんを食べる羽目になる。

お昼。PM02:30くらい、
ぜったい朝のが
ブランチになるはずだと思ったのに
マクドに入って
ベーコンレタストマトバーガーセット。
よりによって
いちばん入ってはいけない場所にいた。
しかもサイドメニュー、芋。
おおお、また芋食ってる。
これで3日連続。自分が信じられない。

夜、さっき。PM10:30くらい。
こんなに食べつづけていてはやばいと
思いつつも晩ごはん。
さすがにカロリーとか気になったので
草鍋をつくることに。
まだお鍋は早かったみたいで
汗をかきかき水菜とニラともやしを
わしゃわしゃ食べる。
お鍋は狭いキッチンで立ちながらなので
猛スピードで鍋3杯分完食。
もちろん片手にビール。

どうしちゃったんやろうかああ。
あるいは、このように考えるのは
おぞましいことであるが
「どうなってゆくんやろうかああ」。

続きを読む "メメント・もりもり"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/09/24

秋の大凹み形

半年にいちどの
昼と夜の長さが同じ日がめぐってきて、
しだいに足元の自分の影が
長く、けれども薄くなってゆく。

ラバーソウルの爪先に貼りついた
自分の影を蹴飛ばすように
ふたりの女の子が歩いていた。

赤いランドセルに
まだ30℃を超す陽射しを受けて。

「ユカちゃんとあたしはな、
幼稚園の小さい組に入った頃から
幼なじみの親友やってんで」

女の子の、少し背の高いほうの子が
得意げにもうひとりに話しかけていた。
むかし流行った玖保キリコ
マンガの主人公みたいな笑顔だった。

ユカちゃん、と呼ばれたほうの女の子は
松本引っ越しセンターの
CMに出てくるような顔立ちをしていた。

ふたりとも小学校2、3年生くらいに見えた。

ユカちゃんは笑いながら
「いまは?」とだけ訊いた。

すると女の子は
かねてから用意してあったように
よどみなく宣言するように答えた。

「いまはなあ、すごすごすご大親友」

ユカちゃんはそれを聞いて
心のそこから嬉しそうに頬笑んだ。
愛されていると感じるときにしか
人が見せない種類の
たっぷりと甘い果実のような笑顔であった。


……だいだいだい大親友、
じゃないのか。

すごすごすご、って。

その横を、後輪の空気が抜けたままの
ナンホック号に跨って、
きこきこと走り抜けていった、
彼女達の景色の一部がワタクシです。

近くの女子高がどうも学祭の時期らしく
湿度の高い青空に
かなり大きなボリュームで
一世風靡セピアの代表曲がかかっていた。

「海には海の世界があるし
そしてふたたび潜らずにはいられない」

うろおぼえで口ずさむ自分はそれをなんか
とっても深い詩だと思ってみたり。


ゆえあって、とゆうか
重なるいくつもの理由から
どろどろしたものと戦う毎日です。

秋の心と書いて愁いと読む。

忙殺とゆうほど忙しくはないのだけれど
なんか心に秋の大凹み形。
何をやってもうまくゆかなくて
砂をかんで
口の中がじゃりじゃりになってたり。

そんなことをいちいち書いてても
おもしろくもなんともないのだ。

とかって思ってたらこんなに更新が
滞ってしまいました。
トドが凍ってしまいました。

むう。

自分とゆう偏りの商品力を
ぼんやりと分析しなおす時期。

「○○の秋」っていろいろありますね。
ワタクシにとって
現在の秋の順番は

1)読書の秋
2)食欲の秋(おもにビール)
3)スポーツの秋(トライアルのバイク壊し中)
選外)芸術の秋(芸術わかんね)

ってなってる気がする。

続きを読む "秋の大凹み形"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/20

ダヴィンチ・コードの匂い

タクシーに乗るとき、
初乗り料金で目的地に到着しちゃうことを
和製英語で「ワンメーター」ってゆうけど
1メーターなはずがないよね。


それはさておき、
3日間郵便局に預けっぱなしだった書籍小包を
今日の夕方やっと引き取りに行った。
正月に親父が貸してくれると云っていた
「ダヴィンチ・コード」上下巻である。

自分のことを本の虫だとか活字中毒だなんて
自画自賛するつもりは毛頭ないけれど、
心のタスクマネージャに「処理中」の本がないよりは
あったほうがいいと思ってしまう。

するとワタクシに輪をかけてスノッブな親父が
それを買って読んでいたことが
正月の会話で判明したので、
読み終わったら送ってくれるように頼んでいたのである。

べつに文学至上主義じゃなくてそれが
「グランツーリスモ4」だっていいのだが
しかしゲームは高い。

たぶん本を買うお金をうまくやりくって
ぎゅってしてがーっといけば買えるんであろうが。

本はそれに較べたら安いし。

でもハードカバーを買うのはよほどのときで
たいていは文庫か雑誌である。

ハードカバーはなさけないことにあれやこれや
べつの兌換可能な価値と天秤にかけて
ええい文庫化待ちでいいやああ、と拳を握りしめる。
昨年下半期話題を呼んだ翻訳ミステリ
「ダヴィンチ・コード」もその例に漏れなかった。

しょうじき、映画も小説も話題作が好きな俗物である。


続きを読む "ダヴィンチ・コードの匂い"

| | コメント (3) | トラックバック (0)